奥阿賀津川の発酵食文化
新潟県東蒲原郡阿賀町津川に来て、初めてわかることがたくさんある。
作り物でない日本の田舎の原風景の心地良さ、「健康は食から」という本当の意味、発酵食の魅力、 そして…
中山間地特有の夏暑く冬は極端に寒い、年間を通じて湿度が高く、晴れの日が少なくて冬は豪雪に見舞われる、そんな誰もが嫌がるであろう気候の裏側でこそ、
からだに良くて美味しい食がはぐくまれること。
このように気候的にはいろいろ気難しい土地だ。
ここ津川(2001年に市町村合併で、旧津川町は現在阿賀町に組み込まれている)は、阿賀野川と常浪川という2本の清流大河が合流する地点でしかも四方を山岳に囲まれているためか、年間を通じて湿度が本当に高い。季節によっては川面に立ち込める朝霧を毎日拝めるほど。御神楽岳など周囲を囲む山にちょっと登れば、川面の朝霧が雲海のように見える絶景が味わえる、それほど湿気が多い土地だ。
だが一方で、ここは水が良い。街自体が河岸段丘にあり、その地下は天然のフィルターとなってミネラリーな伏流水を生む。
この水の良さによって、過酷な気候も美味しい食べ物が生まれる条件へと反転するのが面白い。津川は知る人ぞ知る発酵食文化の町だ。
夏暑く冬寒い、一年を通して湿気が多いなど多くの人が好まないであろう気候条件の裏で美味しいものが生まれ続ける。そこにストーリー性の豊饒さがある。

阿賀町の中でも旧津川町に限れば人口規模は約5000程度。その中に2つの酒蔵がある。麒麟山酒造が手がける「麒麟山」は新潟県民には良く知られた銘酒。「ほまれ麒麟」を醸す下越酒造も代々の社長が国税局の酒類鑑定官を務めてきたことから酒質にこだわる酒造りに定評がある。
発酵食文化で言えばこんなこぼれ話も。江戸末期に日本を訪ねた大英帝国の女性旅行家として近年その存在が再び注目を浴びているイザベラ・バードも日本横断紀行の中で津川の町に立ち寄っている。著書「日本奥地紀行」の中では津川で”つけもの”を食べたことに触れられているのも、発酵食の町・津川を彩るひとつのエピソードだ。

糀屋と味噌
ここ津川は戊辰戦争まで会津藩に属し、物流の玄関口となっていた。津川の川港(河湊)は当時、日本三大河湊に数えられるほど栄えていたという。新潟港に上がる北前船の荷物を水運で会津まで運んでいた。その中でも特に、北の地で水揚げされたニシンは中山間地の会津に供給される貴重なたんぱく源だったが、もちろん生のままでは保存がきかない。そこで保存食として定着したのが「ニシンの糀漬け」だった。これは現代でも津川の郷土食として健在で、古くからの家などには専用の「ニシン鉢」が伝えられている。

この糀がまさに津川のローカルガストロノミーの主役といえる存在。前述の日本酒や漬物にももちろん関わってくる。
津川の街では今も2軒の「糀屋」が暖簾を掲げている。多くの人は糀を専門に小売する「糀屋」という商売に耳なじみのないかもしれない。昔は市井に「味噌屋」の店舗はなく、糀屋から糀を買って各家庭で味噌を仕込むのが普通だった。そのうちに糀屋が味噌の仕込みを代行するようになり、しだいに「味噌屋」が主力となっていったのだという。


山崎糀屋を訪ねてほしい
山崎糀屋は、津川の商店街の端っこに軒を構える。創業は明治元年。創業以来の製法をかたくなに守り、効率化や産量に傾かずに高い品質の糀や味噌をつくる。

山崎糀屋の6代目、名物女将として知られる山崎京子さん。自ら「糀アンバサダー」を名乗り、糀文化の伝承事業に尽力している人である。2021年8月に著書「糀入門・女将が伝える糀生活」が新潟日報事業社から出版されたが、それ以前から「糀のカリスマ」としてよく知られ、女将業に加えて多くの講演やワークショップをこなす全国誌の健康雑誌で特集が組まれた経緯もある。
御年76歳に会えばその現実離れした若々しさに誰もが驚かされる。見た目もそうだがちゃきちゃきとしたトークと人当たりがまるで年齢を感じさせない。

昨今、その優れた健康機能が注目される発酵食品・糀であるが、山崎さんにあっただけでその説得力が完全に裏打ちされる想いだ。
津川を訪ねる機会があったら、ぜひ山崎糀屋を訪ねて糀の話を聞いていただきたい。糀がいかに日本の食文化にとて重要な存在なのか、日本人の身体にとって昔ながらの和食がいかに大切なのか、実にわかりやすく説いてくれる。
そしてその体験の中で、山崎糀屋に伝承される「黄糀」がいかに高いポテンシャルを持つのかわかることになる。これが本当にただものではないのだ。
次節に続く。
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